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平安時代
一般に、貴族がさかえた時代で、かつての天平文化の仏教保護の政策などにより、仏教の僧や寺院の影響力が強くなる時代です。
平安時代の特徴をおさえましょう
坂上田村麻呂
東北地方の蝦夷(えみし)とよばれる人々による朝廷への反乱をおさえるため、東北平定のために送られた征夷大将軍。
宗教
最澄による天台宗や空海による真言宗という新しい宗派が広まりました。これらの仏教では、山奥で修行をすることを旨とする仏教です。
荘園
奈良時代に定められた墾田永年私財法により、貴族たちや寺社は農民らに開墾をさせ、貴族の所有する土地を広げていきました。このため、貴族の所有する私有地である荘園が、大きな影響力を持つようになりました。同時に、貴族や寺社の所有する荘園には、税を収めない権利である不輸の権と、荘園への役人の立ち入りを拒否できる権利である不入の権も貴族の権力維持に大きな影響を与えました。
摂関政治
藤原氏の一族は、娘を天皇の妃にして天皇の母方の親戚になることで、子どもを天皇に据えるという手法で権力を強めてきました。天皇が幼い時期に藤原氏が天皇の補佐をする摂政や、成人後にも政治の実権を握る関白になり、政治を掌握してきました。これを摂関政治といいます。
平安時代当時の中国大陸
唐は10世紀の始めごろに滅び、小国の争いを経て、宋が統一しました。
平安時代当時の朝鮮半島
高麗が新羅を滅ぼしまし、朝鮮半島を統一しました。
平将門による反乱
935年に平将門が関東地方で、武士の力を示すべく反乱を起こし、朝廷によって鎮圧されます。
藤原純友による反乱
939年に藤原純友が平将門同様に、瀬戸内海の周辺で海賊らを率いて反乱を起こしますが朝廷によって鎮圧されます。
前九年・後三年の役
1051年には東北地方で安倍頼時らが反乱を起こしました。この反乱の鎮圧に、源頼義と源義家らが活躍しました。このことを前九年の役といいます。また、1083年にも反乱が起き、再び源氏らが鎮圧しました。この争乱を 後三年の役といいます。
次の問いに答えなさい。
最澄が伝えた宗教名と、場所を答えなさい
宗教名:天台宗 場所:比叡山延暦寺
空海が伝えた宗教名と、場所を答えなさい
宗教名:真言宗 場所:高野山金剛峰寺
藤原氏が行った摂関政治とは、藤原氏が天皇が幼い時には何という役職につき、成人すると何という役職につき、天皇に代わって政治を行うことか
幼い時:摂政 成人後:関白
東北地方に住み、朝廷の支配に従わない人々を何と呼んだか
蝦夷
新羅を滅ぼし朝鮮半島を統一した王朝名は何か
高麗
貴族が持っていた私有地を何というか
荘園
鎌倉時代
鎌倉時代は、朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことに由来した呼び名です。本格的な武家政権による統治が開始した時代です
源頼朝
平安時代末期に、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させることに成功した頼朝は、自らが征夷大将軍となって鎌倉幕府を開きました。対立していた源義経を討ち、幕府という武家政治の拠点としました。
御恩と奉公
将軍の家来の武士のことを 御家人といいます。将軍は、御家人たちの土地の権利を保証するかわりに「御恩」、御家人たちは将軍のために警備をしたり戦争の時には戦う「奉公」という関係をつくりました。頼朝は、御家人を守護(その国の御家人の統制や謀反の取り締まりなど)や地頭(荘園および公領の管理や、税である年貢の取り立て)の仕事につけた
いざ鎌倉
御家人は、戦いが起きればすぐに鎌倉へ行って、将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とする鎌倉時代特有の考え方のこと
執権政治
頼朝の死後は、頼朝の子の頼家が次の将軍になり、さらに次の将軍には頼朝の子の実朝がつきました。しかし、政治の実権は、頼朝の妻である北条政子らの一族の北条氏にありました。このような、執権として政治の実権をにぎる政治のやり方を執権政治といいます
承久の乱
京都の朝廷で院政を行っていた後鳥羽上皇は、政治の実権を朝廷に取り戻そうとして北条氏を倒す命令を出します。しかし、集まった兵士は少なく、北条氏の側が上皇側の軍を破り、後鳥羽上皇は島根県の隠岐に島流しにされ、追放されました。この一連の乱を承久の乱といいます。
御成敗式目
承久の乱 のあとの1232年(貞永元年)に、執権の北条泰時らにより、武家社会の慣習をもとに新たな法律である御成敗式目をつくり、御家人の権利や義務を定め、この式目が政治や裁判のよりどころとなりました。貞永元年にできたことから、貞永式目とも呼びます
民衆の暮らし
農民の負担は、荘園や公領の領主への年貢だけでなく、地頭も労役などを農民に負担させていました。つまり、領主と地頭とによる二重の支配を農民は受けていました。こうして、地頭の権力は、領主と同じように強くなり、地頭と領主とが裁判で争うようにもなりました。幕府は、領主の土地の半分を地頭のものとしたり、地頭から一定の年貢を領主に納めることを条件に、地頭が領地を支配するようになりました。農民の中には、こうした地頭のきびしい支配を、領主に訴え出る者たちもあらわれたほどでした。
農業の発達
鎌倉時代の農業では、鉄を用いた農具が普及しました。稲と麦との二毛作がさかんとなりました。秋に米を収穫し、裏作として麦をつくり、春に麦を収穫することが主流となりました。また、桑・うるし・茶・こうぞ(紙の原料)・ごま・大根・豆・ねぎなどの栽培もさかんでした。
産業の発達
手工業では、鉄製の農具や武具などを作る鍛冶職人・大工・染め物をする職人など、いろいろな手工業の職人があらわれました。衣料品などの手工業者もあらわれました。農工業の発達にともない、商業も発達しました。定期的に市場をひらく定期市が、寺社などの近くで毎月3回ほど決まった日に開かれ始めました。
鎌倉仏教
鎌倉時代には、武士や庶民にもわかりやすく新しい宗派が生まれ、信者を多く得ることになりました。修行を重んじる禅宗は、武士の気風にあい武士の間で広まりました。北条氏は、禅宗を保護し、宋から禅僧を招いたり、鎌倉には建長寺や円覚寺を建てました。禅宗以外の浄土信仰などは、幕府や朝廷からは迫害も受けましたが、民衆の間に広がっていきました。鎌倉時代の前からある、天台宗や真言宗などの宗派も、貴族などを中心に引き続き、信仰されていました。
鎌倉仏教
鎌倉時代には、武士や庶民にもわかりやすく新しい宗派が生まれ、信者を多く得ることになりました。修行を重んじる禅宗は、武士の気風にあい武士の間で広まりました。北条氏は、禅宗を保護し、宋から禅僧を招いたり、鎌倉には建長寺や円覚寺を建てました。禅宗以外の浄土信仰などは、幕府や朝廷からは迫害も受けましたが、民衆の間に広がっていきました。鎌倉時代の前からある、天台宗や真言宗などの宗派も、貴族などを中心に引き続き、信仰されていました。
浄土宗
法然により開かれました。ひたすら念仏を「南無阿弥陀仏」と唱えることで、極楽に往生できると説きました
浄土真宗
親鸞により開かれました。自分が悪人であると自覚した人こそ、阿弥陀仏は真っ先に救おうとすると説きました
時宗
一遍により開かれました。踊り念仏を広めました
日蓮宗
日蓮により開かれました。「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、法華経を信じると救われると説きました
臨済宗
栄西により開かれました。坐禅によって悟りを得られると説きました。宋に渡って得た教えを日本に持ち帰って広めました
曹洞宗
道元により開かれました。坐禅による悟りを説きました。宋で得た教えを日本に持ち帰って広めました
次の問いに答えなさい。
頼朝の死後、幼い将軍を補佐し、後に尼将軍と呼ばれた頼朝の妻の名は何か
北条政子
朝廷の勢力を回復しようとし、天皇の地位を譲り、上皇として院政を敷いた人物の名は何か
後鳥羽上皇
後鳥羽上皇が起こした乱は何か
承久の乱
執権であった北条泰時が定めた、武士のための法律を何というか
御成敗式目
室町時代
足利尊氏が、建武の新政での指導的立場にあった後醍醐天皇を奈良の吉野の山中に追放したことによって始まる時代です。後醍醐天皇の吉野側の朝廷を南朝といい、京都側の朝廷である北朝との対立が深まる時代です
建武の新政
1333年に新田義貞らが鎌倉幕府を攻め落とし、鎌倉幕府を滅ぼしました。その後、後醍醐天皇は摂政や幕府をおかず天皇を中心とした政治を行いました。翌年1334年に年号を「建武」と定めたことから、この新しい体制を建武の新政と呼びます
北朝の成立
足利尊氏は京都に別の天皇として光明天皇を立てさせ、北朝を成立させました。尊氏は征夷大将軍として任じられ、京都に幕府を開いたことで室町幕府が始まります
南北朝の統一
南北朝の対立は、北朝有利で進み、3代将軍の足利義満の頃には、南朝はほとんど勢力を失っていました。そこで南朝を北朝に合一するように呼びかけ南朝を従わせ、1392年に足利義満は南北朝を統一しました
室町幕府のしくみ
室町幕府では、将軍の補佐役として菅領を置きました。守護は、有力な守護大名などから選ばれ、細川氏や畠山氏などの有力な守護大名が交代で管領に選ばれました。また、関東には鎌倉府を置き、室町幕府による関東支配を行いました
勘合貿易
足利義満は、明と国交を結び、倭寇の取り締まりも行いました。正式な日本の貿易船には、海賊船と区別するために、文字の書かれた合い札として勘合符を日本の貿易船に与えました
朝鮮との関係
14世紀末の朝鮮半島では、李成桂が高麗をたおし、朝鮮をたてました。日本とは対等な国交をむすび、朝鮮と日本との貿易も行われました
琉球
14世紀の沖縄では、3つの勢力に分かれて争っていた北山・中山・南山が、中山王の尚氏によって統一され、琉球王国をたて、首里を都としました
蝦夷地
北海道は蝦夷地と呼ばれ、アイヌ民族が暮らしていました。津軽半島の十三湊(とさみなと)を拠点に交易が行われていました。
応仁の乱
8代将軍足利義政の時代に入ると、実子がおらず、やむなく弟の足利義視が跡を継いだが、正妻である日野富子が義尚を生み、このことが発端となり後継者争いが起こりました。このころ、将軍家の権力は衰え、代わりに各地の守護大名が力を強めており、たがいに勢力争いをしていました。将軍や官領の跡継ぎ争いが起こり、それぞれの家中でそれぞれ細川勝元と山名宗全の二派の争いは全国的な争いに発展し、京都を戦場とする戦いが1467年に起きました。この戦乱を応仁の乱といいます
次の問いに答えなさい。
明との貿易で日本から輸出されたものとして、刀・銅・漆器の他に何があったか
硫黄
明との貿易で明から輸入したものとして、生糸・絹織物・書画の他に何があったか
陶磁器
14世紀末の朝鮮半島で高麗を滅ぼし、朝鮮をたてた人物は誰か
李成桂
15世紀初め琉球王国をたてた中山王は誰か
尚氏
座という同業者の団体が武士や貴族、寺社に税を納めることで認められた権利は何か
独占