芥川龍之介による短編小説。
あらすじは、奉公人(自宅とは別の場所に住み込みで働く人のこと)となることを決めた権助が主人公。口入れ屋(職業を紹介する店)ののれんに『よろず(何でも屋)』の文字を見て、どうせなら仙人になれる仕事を紹介してほしいと頼みます。
困った店主は医者に相談したところ、医者の妻が20年無給で働いたら仙人になる秘術を教えると言って、権助を引き取ります。権助は仙人になれるのでしょうか。また、どうして仙人になりたいと思ったのでしょうか。
正直に一生懸命生きることを善しとしつつも、仙人という現実離れした存在になりたいという世間嫌いの気持ちといったや子どもには不慣れな感情を、子どもにも理解しやすい文章で著しています。
また、同時に、金や権力を望みすぎると結果として全ての地位や財産を失ってしまうというような世の中の因果性についても描いています。
芥川龍之介の世界観が全て詰まった作品です。
志賀直哉の短編小説。志賀直哉は裕福な家庭で生まれ、その豊富な資金力を背景に放蕩の限りを尽くして青春時代を過ごしました。そのような行為の裏にある『大人と子どもの関係』に苦心した経験が表れた作品が『清兵衛と瓢箪』です。
あらすじは、瓢箪の魅力に見せられた少年・清兵衛は、形の良い瓢箪を見つけては自分で手入れをして、心ゆくまで磨き満足する日々を過ごすという、一風変わった性質の子どもを主人公としています。ある日、清兵衛は中でも飛びきり気に入った瓢箪を家だけでなく、学校までも持ち込みひそかに磨いていました。しかし、それを学校の先生に見つかり、叱られ、親にも「将来とても見込みのない奴だ」と言われ、あげくに今まで少しずつ集めてきた瓢箪を1つ残らずとんかちで割られてしまいます。
しかし、学校で先生に見つかり没収されてしまった瓢箪の行方が途方もないものになります。また清兵衛も、ただ瓢箪が好きなだけの子どもではありませんでした。一体何が起こるのか。
大人は自分の価値観でしかものを判断できず、子供の個性を抑圧する存在として描かれています。しかしおさえつけられても、子供はその個性をまた別のところで伸ばしていく、という志賀直哉自身の悲痛とも言える自己の表現への欲求が随所に表れています。
新美南吉の童話小説。
本屋の息子・東一が友達とかくれんぼをしていたところ、隠れていた蔵で1つの古いランプを見つけます。そのランプを東一の祖父に見せたところ、そのランプにまつわる昔話が始まります。そのランプは、まだ電気がなく、暗い中で生活しなければならなかった貧しい村で、親がなく村人の厚意で何とか生活していた巳之助(みのすけ)が、仕事先の村で見つけたもので、暗い村に明るさを取り入れようと、一生懸命に知恵をしぼって集めたものの1つでした。やがて村には巳之助の努力のために、多くの人が明るい中での生活を手に入れられましたが、時代が進み、電気が普及するようになります。巳之助の村にも電気が敷かれることになり、巳之助のランプがお役御免となりました。懸命に村のためにランプを集めてきた巳之助は、電気を敷くという決定に憤慨し、逆恨みすらしてしまいます。ランプと巳之助の行く末は、一体どうなってしまうのか。
文明開化という、日本の歴史の中でも最も劇的に変化した時代を生きる人々の喜びと悲しみを表しています。また、そのような劇的な変化があっても、人は一生懸命に、誰かのために働くものだという日本人的発想が、子どもの心にも響く文章で書かれています。物語の終盤では、涙せずには読めない描写もあり、感動できる作品です。
菊池寛の戯曲。作品自体は刊行時、それほどの人気がありませんでしたが、二代目市川猿之助によって舞台化されることで、一躍有名となった作品です。菊池寛は、かの有名出版社である文藝春秋社を創設した人物でもあり、芥川賞や直木賞の創設もしました。
あらすじは、家族を残し、一人家を飛び出した父・宗太郎は、その後一度も家庭には戻らなかった。その間、一家は母とまだ幼い子ども3人で一家心中を図るが、一命をとりとめる。時は流れ、長男・賢一郎は学業の傍らで働き、弟・新二郎や妹・おたねの学費を稼ぎ中学まで卒業させるといった具合に一家を支える。ある日、弟・新二郎が街中で父の姿を見たといううわさを耳にする。帰宅後、家族にその話をすると、今まで何もしてこなかった父が帰ってくるわけがない、と真に受けない賢一郎。むしろ彼の心の中では、絶対に父を許さないという気持ちが静かに燃えている。そんな中、本当に20年ぶりに帰ってくる。物心つく前に父と別れた弟と妹や母は帰った父を歓迎しようとする。しかし、それを兄・賢一郎は許さない。今までの苦労と恨みを交えつつ、父に『玄関をまたぐな』と言って譲らない。このような状況の中で、一家の行く末はどうなるのか。
人情のはざ間を揺れ動く家族のつながりを描いています。
宮沢賢治の童話。宮沢賢治自身のセロ(チェロ)を弾いていた経験が、作品におり込まれているといわれています。主人公のゴーシュのセロが下手な様子は、実際に上手にセロを弾けなかった宮沢賢治が苦労した様子が込められているそうです。また、作品中に出てくる穴の開いたセロは、宮沢賢治が友人と交換したセロにヒントを得ているそうです。
あらすじは、町の活動写真館の楽団でセロを弾くゴーシュは、町の音楽会へ向けて練習を続けていたが、下手なためにいつも楽長に厳しく叱られていた。そんなゴーシュのもとに、カッコウなどの様々な動物が夜毎に訪れ、いろいろと理由を付けてゴーシュに演奏をさせていく。そして時は音楽会本番。果たして演奏は成功するのでしょうか。
初めて本を読むのにも、楽器に詳しくなくても楽しめる内容です。宮沢賢治の作品に童話が多いことや、自己犠牲の精神が多く盛りこまれているのは、宮沢賢治自身が仏教に親しんでいたことや、郷土の農民の悲惨な生活を裕福な立場から見ていた経験が影響しています。本作でも、ゴーシュの元に訪れる動物たちの、半ば強制的でありながらも、それとなくゴーシュに力を貸していく様は、まさにその具体といえます。